ニーバーの祈り

最近、ひたすら本を読んでいる。これまでの経験によると、自分自身で答えを出せない問題に出会ったとき、本を読んで他人の知恵を借りることで意外とどうにかなったりする。 ちょうど今読んでいる本の中で「ニーバーの祈り」が引用されていた。 "神よ、私に変えることのできないことを受け入れる静穏、自分で変えられることを変える勇気、そして、変えることのできないものと変えることのできるものを識別する知恵を授けてください。" 僕が「ニーバーの祈り」に出会ったのはこれが最初ではない。以前聞いたときもいい言葉だなと思って記憶の片隅にはあった。そのときはこの祈りの意味をちゃんと考えたりはしなかったけど、今はこの祈りの意味を真剣に考えたいと思った。 変えることのできないこと。 これまでに選択したこと、選択しなかったこと。つまるところ過去は変えることができない。 他人も、自分では直接変えることのできないものの一つだと思う。 変えることのできるもの。 これから先、何を選択するかは変えることができそう。 自分自身のことも、簡単ではないが変えることはできると思う。 人間、過去について後悔しがち。でも、変えることのできないことについてあれこれ悩むのは意味がないんだな。チェックポイントから再開する機能は現実にはないし。受け入れる静穏というのは心の強さのことでもあると解釈できそう。 変えられることを変える勇気。勇気って出すのが難しい。特に他人に干渉する選択肢をとろうとしたときは、余計なお世話になってしまうのでは、ただの勘違いでは、逆に状況を悪化させてしまうのではないか、と考えてしまう。けど、時間は線形に過ぎていくので、勇気を出さないと選択しないことが自動的に選択されてしまう。それで後悔したことはこれまで何度もあった。そう考えると変えられることを変えるために勇気を出したほうが楽に生きることができるのではないか。 ひとまず、2021年はこの祈りを心に留めて過ごしてみる。自分自身に対しても、世界に対しても、ほんの少しだけ解像度が上がった気がする。

ゲームを作りたかった気がする

何年もゲームを作ろうとしては挫折してきた。 なんでゲームを作りたいと思っていたかわからなくなってしまった。 伝えたいストーリーがあるなら小説を書けばよい。伝えたい一瞬があるなら絵を描けばよい。 そうじゃなくて、ゲームを通してしか伝えられないものを伝えたいと思っていたはずだった。

体験を通した、感情の再現装置としてのゲーム。 感動を他人と共有したかったんだと思う。ゲームを作れば自分の感情を他人にシェアできると思いこんでいた。 技術があれば、アイディアが降ってくれば。それも勘違いだったと思う。 本当にやるべきことは人間の感情にちゃんと意識を向けることだったのではないか。 自分の感情に対してもっと素直になるべきだった。なにに感動して、なぜ感動したのか、もっと考えるべきだった。 他人の感情をもっと知ろうとするべきだった。身近にいる人たちにもっと向き合うべきだった。 それをやらずに、他人を感動させるものなんて作れるはずがなかった。Unityを開く前にやるべきことがあった。 一方的に共感して欲しかっただけで、伝えたいことなんて何もなかったんだなと気づいてしまった。 この数年自分はなにをしていたのだろう。 完成しなかったのではなく、作り始めるスタートラインにさえ立てていなかった。 もちろんゲームはそういうものだけじゃない。頭空っぽにして楽しめるものもあるし、技術的にすごいものもよい。それはそれで素晴らしい。 ただ、自分が作ろうとしたものはそうではなかった。でもそれはもう諦めたほうがいいかもしれない。 出来のいいゲームをやると感動と同時に悔しい気持ちになる。自分もこの体験を作りたい。 それがときどき呪いにように感じることがある。ただのプレイヤーであれたらいいのに。 今日はもう寝たほうがよさそう。メリークリスマス。